【SKIPの知財教室(IP Hack ®)】じっくり®ヒストリー 風力測定器を発明した レオン・バッティスタ・アルベルティ(ルネサンス時代のイタリアで大活躍した有名な建築家)
2024.10.21
AKI
私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらはすべて先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。自然が起こす風は、気圧差や温度差によって生み出されます。人間は古くから、風とともに暮らしてきました。夏の暑さを和らげる優しい風もあれば、時に建物や山々を削り取り、そこに住む人を脅かす風も発生します。現在では風の持つエネルギーを利用して、電力を作る研究も行われています。風を有効活用するために不可欠だったのが、風の速さや勢いを数値として表す計測器です。歴史上、初めて風力測定器を発明したのが、ルネサンス期のイタリアで活躍したレオン・バッティスタ・アルベルティです。彼はルネサンス期を象徴する人物でもあり、気象学の他にもあらゆる分野で功績を残しました。今回はそんなレオン・バッティスタ・アルベルティの生涯を振り返っていきましょう。
レオン・バッティスタ・アルベルティの前半生(没落貴族の息子として生まれて建築家となり、風力測定器や湿度計を発明する)
レオン・バッティスタ・アルベルティは、1404年ジェノヴァで生まれました。アルベルティ家はフィレンツェで銀行を経営する有力な貴族でしたが、政権争いに巻き込まれ没落。最終的には国外へ追放され、ジェノヴァに移住したのです。
国を離れようと、良家であることには変わりません。アルベルティは幼くして英才教育を受け、のちに開花する才能の支柱となる教養を蓄えていきました。まずはじめにパドヴァで古典学と数学を学び、1421年にはボローニャ大学へと進学します。大学ではカトリックが制定した法である教会法を学び、学位を取得しました。1428年、アルベルティ家に出されていた追放命令が解除され、フィレンツェ国内に戻ることが許されました。この年、アルベルティは大学を卒業し、ヨーロッパ各国を周って多様な学問と文化に触れる旅に出ました。
1432年頃、アルベルティはローマに移住。親交のあったフラーヴィオ・ビヨンドの仲介で教皇庁に入ることになり、書記官に就任します。当時のローマ教皇エウゲニウス4世は、建築事業の顧問を務めていたベルナルド・ロッセリーノに対してアルベルティの意見を取り入れるように支持しました。本格的に活動を開始したアルベルティは、アクア・ヴェルジネの水路修復とトレヴィの泉の造営に関わりました。この時期、アルベルティは古代ローマ人の人文学に傾倒し始めます。もっとも大きなきっかけとなったのは、共和政ローマ末期から帝政ローマ初期に活動した建築家ウィトルウィウスが著した『建築について』を読んだことだと考えられています。アルベルティは、そこに書かれている人体比例と建築比例の理論に着目し、これを基礎として、1451年に自らも『建築論』を執筆しました。
この時期、アルベルティは板の傾斜によって風圧を測定する装置を考案し、発明しました。風力計の発明家といえばレオナルド・ダ・ヴィンチが挙げられることもありますが、初めて風力計を発明したのはアルベルティです。また、アルベルティは湿度計の発明も行いました。『建築論』の中で、海綿が湿ると重さが変わることを利用した湿度計の仕組みを解説しています。
レオン・バッティスタ・アルベルティの後半生(ルネサンス時代のイタリアで建築家として大活躍する)
優秀で礼儀正しいアルベルティは、人望も厚い存在でした。フィレンツェで商人をしていたジョヴァンニ・ディ・パオロ・ルチェッライとは友人であり、彼からの依頼を受けてパラッツォ・ルチェライ(邸宅)を設計しました。その意匠は、ローマのコロッセオから着想を得て作られたものです。古代ローマの建築技術を取り入れながらも、ルネサンス期独自の進化を遂げた手法を用いて設計されているパラッツォ・ルチェライ。現代において、歴史的な意味を持つ建造物として世界中に知られています。
その後、アルベルティイタリアの彫刻家ルーカ・デッラ・ロッビアとともに、リミニのシジスモンド・マラテスタ公に招待されました。ここでは、サン・フランチェスコ聖堂を改装してテンピオ・マラテスティアーノとする工事を受けることになります。しかしこの仕事は、シジスモンド・マラテスタ公の失脚と逝去により未完に終わりました。
その後、フィレンツェに戻ったアルベルティは、パオロ・ルチェッライからサンタ・マリア・ノヴェッラ教会正面の設計を委託されます。正方形の組み合わせと単純な比例関係による総大理石の建築デザインを設計しましたが、アルベルティは完成した建物を見ることのないまま亡くなってしまいます。アルベルティの死後、1477年に完成に漕ぎ着けました。フィレンツェでは、1460年、ミケロッツォ・ディ・バルトロメオの設計によるサンティッシマ・アンヌンツィアータ聖堂の建築を引き継ぎ、後陣部分の設計にも携わっています。
アルベルティは1459年に、ピウス2世とともにマントヴァを訪れていました。1470年に再びマントヴァを訪れました。目的はサン・セバスティアーノ聖堂とサンタンドレア聖堂の設計をするためです。サン・セバスティアーノ聖堂の設計は1460年に構想されており、1470年に修正、起工されました。サンタンドレア聖堂の設計は1470年に構想され、アルベルティが手がけた建築の中でも代表的なものとして知られています。
1471年にもマントヴァに滞在した時期がありますが、ローマに戻った1472年に死去。周囲から尊敬され、愛されていたアルベルティは惜しまれつつこの世を去りました。
今回は、イタリアの建築家レオン・バッティスタ・アルベルティの生涯を振り返りました。建築家として活動し、数多くの建築と設計を手がけた功績で知られるアルベルティは、ルネサンス期の重要人物として知られています。建築だけでなく、音楽や絵画などさまざまな分野でも活躍しました。現代にもアルベルティが設計した建築物は数多く残されています。いつの日か、その美しさをこの目で見てみたいものです。