ブログ

【SKIPの知財教室(IP Hack ®)】じっくり®ヒストリー プランクの法則を発見した マックス・プランク(「量子論の父」とも呼ばれ、ノーベル物理学賞を受賞し、マックス・プランク研究所の名誉会長となったドイツの天才物理学者)

IP HACK

2024.08.05

AKI

私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらはすべて先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。プランクの法則は、e=hvという公式で成り立っています。この等式はエネルギーの量子仮説を捉えるためのもので、黒体放射について説明するものです。式の中の定数hは光の最小単位「プランク定数」と名付けられ、物理学における基礎定数のひとつとなりました。を見つけ出したのは、「量子論の父」とも呼ばれるドイツの物理学者、マックス・プランクです。彼はプランクの法則を確立した功績を讃えられ、1918年にノーベル物理学賞を受賞しました。今回はそんなマックス・プランクの生涯を振り返っていきましょう。

マックス・プランクの前半生(優秀な成績を収めて大学で物理学を専攻する)

マックス・プランクは1858年、ホルシュタイン公国のキールという港町で生まれました。法学者と牧師の両親を持ち、7人兄弟(うち2人は父親と先妻との子)で暮らしていました。学者の家系に生まれ、経済的にも裕福だったため、プランクは十分な教育を受けることができました。

1867年、プランクの父親はミュンヘン大学に招かれ、教授職を務めることになります。一家はミュンヘンへと移住し、9歳のプランクはマクシミリアン・ギムナジウムのラテン語学クラスに転校しました。学業では品行方正で礼儀正しく、優秀な成績を収めており、家では親戚とともに登山や音楽に勤しむなど、多才な面を見せていました。天才といえるほど飛び抜けたものではありませんでしたが、彼の優秀さと人柄で周囲からの人望も厚かったようです。やがて成長とともに学問のレベルも上がっていき、物理学の分野でエネルギー保存の法則について興味を示しました。

プランクは当初、音楽家を目指そうとしていました。しかしこれは、興味のある分野が多く、進路を決めかねていたためです。知り合いの音楽家に進路に関する助言を求めたところ、「助言が必要なくらいなら音楽はやめた方がいい」と言われたために音楽家の道を諦めたとされています。物理学にも興味を持っていたプランクは大学で物理学を専攻しようと考えますが、物理学者のフィリップ・フォン・ヨリーは、物理学は既に確立した「終わった分野」であるとして熱力学分野への進出を反対されました。しかしプランクは、ミュンヘン大学の進学後に物理学を専攻します。

マックス・プランクの後半生(黒体放射の研究を行ってプランクの法則を導き出し、ノーベル物理学賞を受賞する)

大学に入ると、プランクは熱力学に傾倒していきます。在学中、ベルリン大学に赴いてヘルマン・フォン・ヘルムホルツ、グスタフ・キルヒホフから講義を受けました。しかし講義には満足できず、プランクはほとんど独学で熱力学を学びました。ミュンヘン大学に戻ると学位論文を書き上げ、1879年に学位を取得。翌年、教授資格取得論文を提出し、審査に合格して大学教授の資格を獲得します。教授の資格は得られたプランクでしたが、教授職の空きがなく、しばらくは無給の私講師として親の元で暮らしていたそうです。それからプランクは熱心に研究を続け、ベルリン大学へと移ります。かつて師事していたヘルムホルツと同僚になり、ドイツ物理学界における大きなパイプを手にしました。ベルリンに来てから、プランクはドイツ物理学会で自らの研究結果を発表しました。はじめのうちは賛同を得られなかったが、やがて支持者が増え、1891年までには学位請求論文が頻繁に貸し出されるようになりました。1894年にはヘルムホルツの推薦により、プロイセン科学アカデミーの正会員となります。

1895年ごろから、プランクは黒体から放射されるエネルギー(黒体放射)に関する研究を始めました。そして、ヴィーンの放射法則を修正することで、すべての波長に対して実験結果と一致する式を発見し、1900年にドイツ物理学会の会合で発表しました。その後プランクはこの式の意味するところについてさらに考え、光のエネルギーがある最小単位の整数倍の値しか取れないと仮定すると説明できることを発見。放射に関するプランクの法則を導き出したのです。またこの過程で得られた光の最小単位に関する定数はプランク定数と名づけられ、物理学における基礎定数の一つとなりました。

エネルギーが連続的な値ではなく、プランク定数に基づいた不連続な値しかとることができないという理論は、当時の古典物理学では説明が難しかったのです。やがて複数の科学者により研究が進み、プランクの理論は量子力学として大きく発展することとなります。この功績が讃えられ、1918年にノーベル物理学賞がプランクに授与されました。

ナチス政権が樹立すると、ユダヤ人への迫害が始まりました。プランクもカイザー・ヴィルヘルム協会の会長職を退くことで政府への反意を表明することも考えましたが、後進の育成が重要という考えと周囲からの期待から、続けることにしました。それからドイツは暗黒の時代を迎え、プランクも冷遇の憂き目に遭ってしまいます。戦火ですべてを失い、高齢にもかかわらず屋外で雨風をしのぐ生活を送ることに。やがてドイツは戦争に負け、少しずつ元の生活に戻り始めました。

戦後、カイザー・ヴィルヘルム協会は占領軍との交渉で再建を許されましたが、カイザー・ヴィルヘルムの名を使うことは禁止されていました。これを受けて研究所はマックス・プランク研究所と改名。プランクは名誉会長となります。マックス・プランク研究所は21世紀に入っても物理学研究の一大中心地として、様々な画期的研究成果を挙げています。

1947年1月、プランクは肺炎にかかり入院。一度退院するものの、すぐに再入院することになってしまいます。同年10月、ゲッティンゲンの地でこの世を去りました。

今回はドイツの物理学者で、「プランクの法則」に名前を残すマックス・プランクの生涯を振り返りました。黒体放射に関わる法則と定数を導き出し、物理学の躍進に大きく貢献しました。ノーベル物理学賞を受賞し、彼の功績は後世に残る偉業となったのです。マックス・プランク研究所は現在も残っており、先進的な物理学の研究を続けています。今後、どのような発見がもたらされるのか楽しみですね。

アーカイブ