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【SKIPの知財教室(IP Hack ®)】じっくり®ヒストリー 世界最大の植物種子コレクションを創設した ニコライ・ヴァヴィロフ(栽培植物の「平行変異説」を唱えたが、ソ連共産党に「ブルジョア的エセ科学者」として逮捕されて獄死した可哀想な植物学者)

IP HACK

2024.07.22

AKI

私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらはすべて先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。農作物の栽培は、食料を確保するうえで重要な取り組みの一つです。稲や小麦など、米やパンなどの主食となる作物は、人間の食習慣を長い間支えてきました。古くから受け継がれている農業ですが、天候や気温の変動で収穫が減ることもあり、その度に食糧難に悩まされてきた歴史もあります。やがて遺伝子研究が始まると、植物の遺伝子に直接働きかける技術が生まれました。農作物の遺伝子研究で大きな功績を示したのが、ロシアの植物学者だったニコライ・ヴァヴィロフです。彼は「食料を安定的に確保するためには、さまざまな種類の植物の遺伝子を確保し研究することが重要」と考え、各国にわたり大規模な農学・植物学調査を行いました。その結果、当時のもので世界最大の植物種子コレクションを創設しました。彼のコレクションは、以降の遺伝子研究において大きく役立てられました。今回はそんな、ニコライ・ヴァヴィロフの生涯を振り返っていきましょう。

ニコライ・ヴァヴィロフの前半生(栽培植物の「平行変異説」を唱えてソ連の作物研究の中心的存在となる)

ニコライ・ヴァヴィロフは1887年、モスクワの商家に生まれました。のちに物理学者となるセルゲイ・ヴァヴィロフを弟に持ち、自らも学問の道を志しました。ヴァヴィロフは若くして大学で好成績を修め、着実にキャリアを積み上げていきます。1911年、モスクワ農業大学を卒業すると、翌1912年まで応用植物学研究所、植物病理学研究所に勤務しました。さらに1913年からは、イギリスの遺伝学者ウィリアム・ベイトソンのもとで植物の病害抵抗性の研究に着手。1917年にはサラトフ大学農学部教授となり、1919年コムギのさび病に対する抵抗性の研究、1920年には栽培植物の「平行変異説」で注目されました。

ヴァヴィロフの活躍はロシア国内に知れ渡り、1921年にはペトログラードの応用植物学研究所所長に就任します。1926年にはレーニン賞を受賞、そして1930年代にはモスクワのソビエト科学アカデミー遺伝学研究所所長、連邦地理学会会長などの要職を兼ね、ソビエトの作物改良研究の責任者となりました。

ニコライ・ヴァヴィロフの後半生(世界最大の植物種子コレクションを創設するが、共産党に逮捕されて獄死する)

ヴァヴィロフは、食料を安定確保するために、さまざまな遺伝資源を調査し、その育成方法を確立すべきだと考えていました。そこで、世界各地を旅して現地の農作物を調査し、地域ごとの遺伝的な多様性について研究をまとめました。さらに観察した植物の種子を持ち帰り、帰国後にコレクションを展示する施設を創設します。研究結果は『栽培植物発祥地の研究』という書籍にまとめられており、多くの遺伝学者の興味をひきました。

1930年代に入ると、ソ連国内では共産党員のトロフィム・ルイセンコが勢力を広げていきます。彼はメンデル遺伝学を真っ向から否定し、徹底的に遺伝学者を排斥しようとしました。ヴァヴィロフも例外ではなく、ルイセンコの手によって立場を失いました。苦しい立場ながら弱々しく抵抗を続けていたものの、1940年に「ブルジョア的エセ科学者」として教職を解雇され、逮捕されてしまいます。

逮捕の背景にあったのは、当時ソ連の最高指導者として政権を握っていたヨシフ・スターリンによる「大粛清」が行われていたことでした。大粛清とは、スターリンに反対する勢力を徹底的に排除する政治弾圧のことです。ルイセンコはスターリンの右腕のような存在であり、彼に反対するヴァヴィロフも弾圧の対象となってしまったのです。

国家の敵として逮捕された者に待ち受けているのは、強烈な精神攻撃と劣悪な環境です。ヴァヴィロフと同じように投獄された学者たちも数多く、およそ68万人が死刑判決を受けたとされています。極刑でなくとも国家反逆は重罪であり、受刑者に対する攻撃は苛烈を極めていました。尋問に加えて身体的な攻撃、さらに食事も満足に出してもらえない生活が続き、ヴァヴィロフはだんだんと衰弱していきました。監獄の中で3年間を過ごし、最期は栄養失調でこの世を去りました。

ヴァヴィロフの種子コレクションのうち、独ソ戦でドイツ軍が占領した領域の研究施設に保管されていたサンプルはオーストリアのグラーツ郊外のナチス親衛隊の研究所に運搬されてしまいます。しかし、コレクションの中核をなすレニングラードの施設に保管されていたサンプルは、悲劇的なレニングラード包囲戦にもかかわらず影響を受けませんでした。サンプルを命懸けで守り続けた研究員の逸話も語り継がれています。

スターリンの死後、ヴァヴィロフの名誉は回復されました。ソビエト科学アカデミーのヴァヴィロフ賞とヴァヴィロフメダルは、彼の功績を讃えてのものです。

今回は遺伝学の発展に大きく貢献したニコライ・ヴァヴィロフの生涯を振り返りました。植物の遺伝研究を進歩させる成果を残したものの、大粛清の憂き目にあい志なかばでこの世を離れたヴァヴィロフは、忸怩たる思いを抱いていたことでしょう。偉大な功績は、後世に語り継いでいきたいものですね。

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