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【SKIPの知財教室(IP Hack ®)】じっくり®ヒストリー エッフェル塔の設計者 アレクサンドル・ギュスターヴ・エッフェル(フランス・パリのエッフェル塔を建設し、自由の女神像も設計した天才建築家)

IP HACK

2024.07.08

AKI

私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらはすべて先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。エッフェル塔といえば、フランス・パリを象徴するシンボルとして知られる建造物です。19世紀後半に発生した高層建造ブームで、各国が自国の威信をかけてどの国よりも高い建造物を作れるかを競っていました。そんな中、フランスも1887年からエッフェル塔の建設をはじめ、たったの2年あまりで完成に至りました。直後のパリ万国博覧会ではエッフェル塔が目玉となり、世界中から多くの人々が訪れました。現代においても、エッフェル塔はパリの観光名所として知られ、多くの観光客で賑わっています。エッフェル塔を建設したのは、フランス生まれの技師・構造家・建設業者だったアレクサンドル・ギュスターヴ・エッフェルです。彼はエッフェル塔建設の設計士であり、建設を受託したエッフェル社の代表でもありました。さらには気象学と航空力学の研究発展に寄与したことでも知られています。今回はそんなアレクサンドル・ギュスターヴ・エッフェルの生涯を振り返っていきましょう。

アレクサンドル・ギュスターヴ・エッフェルの前半生(最初は化学を選考したが、途中で建設に転じる)

アレクサンドル・ギュスターヴ・エッフェルは1832年、フランスのディジョンで生まれました。ドイツ系アルザスの家系に生まれ、幼少期は盲目の祖母と一緒に暮らしました。設計の才能があり、10歳のときに一人で造った教会と風車がある箱庭は、その完成度の高さで見る人を驚かせたといいます。

ディジョン王立中等学校に進むと、エッフェルは優秀な成績を修めます。1850年、パリでエコール・ポリテクニークに入ることを目標に勉強に励みますが、受験に失敗。第2希望のエコール・デ・サントラル化学科に進学し、一年間の学業を終えて、中央工芸学校からの技師免状を取得します。

エッフェルが化学を専攻した理由は、化学工業で成功した伯父の姿を見ていたからです。伯父は将来、エッフェルにその工場を譲ることを考えていました。エッフェル自身も、会社の後を継ぐことを考えてはいましたが、最終的には化学製品ではなく建設の道を歩むことになります。卒業制作のテーマには化学工場の建設を選んでおり、この頃から建築家としてのキャリアを考えていたのでしょう。卒業後、エッフェルは伯父の工場ではなく義理の弟が経営する鉄工所に勤めた後、鉄道関係の仕事を始めます。当時、フランスでは鉄道網を建設する計画が進められていました。そんな背景もあり、エッフェルは鉄道に興味を覚えたのです。

1856年、エッフェルは鉄道資材建造業者のシャルル・ネブザーと出会います。2人は意気投合し、親交を深めていきます。交流の中で、当時業界の中でも名の知られた科学者たちと接見する機会も数多く用意していたといいます。その後は西部鉄道会社に数ヶ月勤務し、ネブザーの会社に戻りました。復帰後まもなく、会社はベルギーのポーエル鉄道設備会社と合併することになります。ここから、エッフェルは数多くの建設事業を手がけ、実績を積み上げていきました。

アレクサンドル・ギュスターヴ・エッフェルの後半生(パリ万博でエッフェル塔を建設し、自由の女神像も設計する)

1889年、パリで革命100年を記念した万国博覧会の開催が決まりました。これに伴い、目玉となるモニュメントとして、巨大な鉄塔を建設する事業計画がスタートします。これがエッフェル塔建設の始まりです。完成当初は賛否両論あったものの、現代ではパリの象徴として知られています。

エッフェル塔の大きな特徴は、そのフォルムの美しさです。力学的な条件のみを追求し、装飾を極限まで削ることで無骨ながら見る人を感動させる造形の深さを生み出しています。さらにアメリカ・ニューヨークのシンボルである自由の女神像も、パリでエッフェルの手によって設計され、アメリカに渡りました。

世界的に有名な建築物をいくつも手がけているエッフェルですが、一度大きな事件に巻き込まれたことがあります。それは、パナマ運河建設をめぐる政治と事業者の癒着でした。エッフェルは建設事業者としてパナマ運河の建設に参加したことで、スキャンダルに巻き込まれてしまうのです。エッフェルは汚職の疑いをかけられ、懲役2年、罰金2万フランの罰を求刑されるものの、最高裁で逆転し無罪放免。しかしこの経験が骨身に染みたエッフェルは会社の経営から身を引きました。経営から退いたあとは、娘婿のアドルフ・サルと旧友モーリス・ケクランに経営を委ねました。

晩年、エッフェルはエッフェル塔の4階に気象や天体、生物などの観測ができる研究室を設置します。パリで活躍した科学者たちが集まり、ここで研究に没頭しました。エッフェル自身も、その生涯の中で風に関する問題を認識していました。70歳を過ぎ、風を制御する研究に取り掛かり、エッフェル型と称される風洞を建設します。その後この風洞はパリオトゥイユに移され、本格的な風の研究が続けられました。

1920年に研究の道からも引退。その後は孫たちに囲まれ、おだやかな晩年をすごしたといいます。1923年、エッフェルは自ら設計したパリの自宅で死去。91歳でした。彼の功績が称えられ、1996年に発行されたエッフェル肖像200フラン紙幣の表にはガラビ橋、裏にはエッフェル塔が描かれています。

今回はエッフェル塔の設計者アレクサンドル・ギュスターヴ・エッフェルの生涯を振り返りました。世界中に知られる建築物を世に生み出し、さらに気象に関係する研究で大きな発見をした彼の功績は素晴らしいものです。誰もが知っている世界のシンボル、その歴史をたどると新しい発見があって面白いですね。

 

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