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【SKIPの知財教室(IP Hack ®)】じっくりヒストリー リボルバー拳銃の発明家 サミュエル・コルト(コルト特許武器製造会社(現コルト・マニュファクチャリング)の創業者)

2023.02.28

AKI

私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらはすべて先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。南北戦争をはじめとする戦争で強い威力を発揮したのがリボルバー拳銃です。リボルバー拳銃とは回転式拳銃と呼ばれ、回転するチャンバーによって弾をその都度装填する必要がなく、連続発射が可能な拳銃です。そんなリボルバー拳銃を製造し、普及に尽力した人物がアメリカ人発明家のサミュエル・コルト(Samuel Colt)でした。彼は、コルト特許武器製造会社を設立し、さまざまなトラブルに見舞われながらもリボルバー拳銃を広く普及させました。そこで今回はリボルバー拳銃を製造し普及させた人物、サミュエル・コルトの生涯を振り返っていきましょう。

 

サミュエル・コルトの生涯(幼いころとリボルバーへの強い関心)

1814年(文化11年)7月19日、サミュエル・コルトはアメリカ合衆国コネチカット州で誕生しました。コルトの父クリストファー・コルトは農夫を営んでおり、母のサラ・コールドウェルはコルトが7歳になる前にこの世を去ってしまいました。父は農場を辞め、実業界への転職を果たし、それを機にコルトを含む五男三女の兄弟と父はコネチカット州内のハートフォードへ引っ越し暮すことになりました。

コルトが11歳になった頃、父は再婚し継母となったオリーブ・サージェントから大切に育てられました。また、コルトは小さいころから乗馬用の拳銃を手にする機会があり、この頃の経験が後の研究へとつながったのでしょう。

ちょうどこの頃、コルトは年季奉公(雇用者との契約の下に一定期間働く雇用制度の一形態)としてグラストンベリーの農場で雑用をして学校へ通うようになりました。この期間中、コルトは聖書の代わりとして科学系事典の「知識の大要」を読み進めていました。この事典にはロバート・フルトン(アメリカ合衆国の発明家で世界初の潜水艦を設計したことで知られる)や火薬に関する内容がこと細かに書かれていたそうです。知識の大要を読んでいたコルトは、大きく影響を受け、後の動機とアイデアへとつながりました。

あるとき、買い物に出かけたコルトは二重銃身ライフルの成功に関する軍人の話をたまたま耳にしたそうです。この時に2連続にとどまらず5, 6連続で発射する銃の可能性に関する話も耳にしました。実は5, 6連続発射の銃は作成不可能だとされていたそうですが、この事実を耳にしたコルトは衝撃を受け、このときに「自分も「不可能だ」と言われている銃を創ってみせる」と決心したそうです。

1829年(文政12年)、コルトは父が営んでいたマサチューセッツ州の繊維工場で働くことになりました。繊維工場では工具や素材に触れ、工場労働者の専門技能などを学び、多くの新しい発見をして刺激的な日々を送っていました。そんな中で事典を読んでいたころに得た知識やアイデアから、電気式火薬電池を自作し、近くにあったウェア湖で爆発させるといった実験も行うようになりました。

1832年(天保3年)、父の指示によって海洋交易を身に着けることを目的として、インドのカルカッタへ宣教するために船で向かっていた宣教師に仕えるようになりました。この航海中にも船の動輪を観察していて、後の発明に繋がったそうです。コルトは、「動輪がどちらの方向に回転しようと、それぞれのスポークが常にクラッチとかみ合うように線で接することを見つけ、リボルバーの考えがまとまった」と後に語っています。

同年アメリカに戻ったコルトは、父から銃2丁を製造するための資金援助を受けました。しかし、父はコルトのアイデアに全く期待していなかったため、機械工としては低賃金労働者を雇いました。結果的に、完成した銃は低品質なもので1つは発射で爆発し、もう1つは弾が出てこないというひどい出来だったそうです。

また、同時期には工場の化学者に亜酸化窒素(笑気ガス)に関して学び、移動実験室を設立し、アメリカやカナダを回り亜酸化窒素の実演をしながら生計を立てていました。そして、優秀な銃鍛冶を雇い、銃づくりを始めました。1832年(天保3年)、リボルバーの特許出願にまで至りました。

 

サミュエル・コルトの生涯(リボルバー拳銃のトラブルと普及)

1835年(天保6年)、コルトはイギリスへ移り自身初の特許を取得しました。特許取得後にはフランスにて販売営業を始めました。その後は再びアメリカへ戻り、ニュージャージー州で武器の製造を開始しました。1836年(天保7年)にはリボルバー拳銃で特許を取得、1839年(天保10年)にも新たに特許を取得しました。これら2つの特許は「コルトのパターソン・ピストル」と呼ばれ、回転式後装填折り返し引き金武器の基本的な原理を保護するきっかけとなりました。

1836年(天保7年)には「コルト特許武器製造会社」を設立しました。このとき、銃が売れるたびに自分への特許使用料が入り、会社が解散したときには特許権が自分に返却されるという契約を取りました。

最初に作られた「実使用リボルバーと最初の連続発射火器」は、既に知られたパーカッション式の技術を集約されたものでした。そのため、コルトが設計したのは、リボルバーの発明ではなく、コリアーの回転式フリントロック銃の単なる実用化でした。そのためコルト自身もリボルバーを発明したと言うことはありませんでした。また、コリアー自身は既にイギリスで特許取得済みでしたが、コルトと同様の請求を行ったダーリング兄弟よりも早く特許を獲得できたことが幸いだったといえるでしょう。

また、当時の銃は手作りだったこともあり非常に高価でした。そこでコルトは大量生産が可能となる製造ラインを創ることを考えていましたが、うまく資金を獲得することができず、この計画は失敗に終わってしまいました。

リボルバー拳銃が完成した後にも、問題が山積みでした。州兵法では米軍が購入する武器としては、現時点で利用されている武器のみに限られていました。つまり、当時使用されていなかったリボルバー拳銃に公に予算が使われることはありませんでした。

1837年にマーティン・ヴァン・ビューレン(アメリカ合衆国第8代大統領)が大統領に就任すると、経済危機によって会社が破産してしまいました。しかし、このとき勃発したセミノール戦争で、リボルバー拳銃とリボルバー・マスケット銃(銃身にライフリングが施されていない先込め式滑腔式歩兵銃)が初めて販売され、コルトはなんとか危機を逃れました。しかし、その後もトラブルが続出してしまい、拳銃の支払いもなくなり工場が閉鎖されることとなってしまいました。

1847年(弘化4年)、米墨戦争において、米国政府らから合計1,000挺のリボルバー拳銃の注文を受けました。既にこのときには工場やひな型はなかったため、銃製造を行っていたイーライ・ホイットニー・ジュニアの手を借りて製造することに成功しました。このときには新型モデルも製造し、1挺ごとに10ドルの利益を獲得できるようになりました。

そして、コルト火器製造会社が設立され、リボルバー拳銃が人気となり、「コルト」はリボルバー拳銃の代名詞となりました。その後、リボルバー拳銃は瞬く間に普及していき、南北戦争でも大きく活躍しました。

1862年(文久2年)1月10日、痛風、炎症性リューマチ、動脈炎の併合症を発症し、この世を去りました。

 

今回は連続発射を可能とする拳銃のリボルバー拳銃を製造し、広い普及に貢献した人物のサミュエル・コルトの生涯を振り返ってきました。コルトは幼いころより拳銃をはじめとする科学に強い興味を示し、パーカッション式技術からリボルバー拳銃を作り上げた人物でした。リボルバー拳銃の製造に成功した後も度重なるトラブルに見舞われ、なかなか結果を出せずにいました。しかし、その後、大量発注を受け新型モデルも含め戦争で使用され活躍したことで、人気が出て広く普及させることに成功しました。現在日本では警察や自衛隊などの関係者を除いて拳銃を目にすることは基本的にはありませんが、拳銃に関する技術の向上や発展に大きく寄与したことは紛れもない事実です。私たちの知らない世界でも発明が行われています。このような製品の誕生秘話を知るだけでこれまでとは違った見方となるのではないでしょうか。これから先どのような発明が誕生するかとても楽しみですね。

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