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【SKIPの知財教室(IP Hack)】クォーツ式腕時計の発明家 中村恒也(セイコーエプソン社長)

2022.05.20

SKIP

私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらは全て先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。ビジネスシーンなどで非常に多くの方が利用しているのが腕時計です。現在販売されている腕時計は非常に精度が高く、時刻がずれるということは少なくなってきています。さらに、腕時計の価格も下がってきており、高精度の製品が安価に手に入るようになっています。非常に高精度で安価というメリットを持つのが、水晶を振動させて針が動いている「クォーツ式腕時計」です。このクォーツ式腕時計はセイコーホールディングスの開発メンバーだった中村恒也(なかむらつねや)が研究を重ね開発しました。それまでは機械式の腕時計が一般的であり、精度があまり高くないにもかかわらず、構造の複雑さによって高価格というデメリットがありました。しかし、クォーツ式腕時計の登場によって高精度な製品を安く手に入れることができるようになり、瞬く間に世界中に広まりました。現在では世界中でクォーツ式腕時計が生産されており、なんと腕時計の約96%はクォーツ式と言われています。そこで今回はクォーツ式腕時計を発明した日本人、中村恒也の生涯を振り返っていきましょう。

中村恒也の生涯(クォーツ時計開発まで)
世界中で利用されている腕時計の約96%はクォーツ式腕時計というタイプです。クォーツ式腕時計とは水晶が電圧印加を加えて振動する時計で、高精度でありながら低価格というメリットで知られています。このクォーツ式腕時計を発明したのが、日本を代表する企業「セイコーホールディングス」の中村恒也でした。ここでは中村恒也の生涯を振り返っていきます。
中村恒也は大正12年(1923年)、山形県酒田市に誕生しました。地元にあった山形県立酒田中学校(現在の山形県立酒田東高等学校)を卒業しました。その後は日本大学理学部機械工学科で研究し昭和19年(1944年)に卒業しました。同年、恒也は第二精工舎(現在のセイコーインスツル)への入社を果たします。
入社して1年後の昭和20年(1945年)3月10日、東京大空襲が発生しました。第二次世界大戦(1939-1945)の末期、アメリカ軍によって東京都を中心にとても大きな爆撃を受けました。昭和19年(1944年)11月から翌年の8月までの期間に、なんと106回もの空襲を受けたそうです。その中で最も甚大な被害を受けたのが3月10日の東京大空襲でした。単独の空襲による犠牲者は世界中でも史上最悪規模、一晩で東京都の3分の1以上が焼け野原と化してしまいました。
東京大空襲によって被害を受け、昭和20年(1945年)に恒也は諏訪市に疎開することになりました。それに伴い、第二精工舎工場(セイコーエプソン)に異動しました。工作機械と部品は空襲の被害を受けてしまったそうですが、その後社員らによる整備が終了し商品製造が可能な状態までこぎつけました。諏訪工場に異動してからは時計を専門に研究・製造していくことになりました。
昭和31年(1956年)、恒也は機械式腕時計のマーベルを設計して商品化することに成功しました。機械式腕時計は内部の構造が非常に複雑です。細かい部品が幾つも複雑に重なり合ってできているタイプの腕時計です。女性用の小さな腕時計も開発を試みたそうですが、構成の複雑さの問題を排除しきれず、時計の精度も高くできなかったといいます。
昭和33年(1958年)、放送局用の時計として水晶時計の開発に成功しました。大きさはなんと2メートル越えの大きな水晶時計でした。
その頃日本では、昭和39年(1964年)に開催予定だった夏季オリンピック東京大会の準備が進められていました。それは恒也らも同様でした。そして、東京オリンピックで使用する競技用のクォーツ時計を開発しようと研究を始めました。競技用クォーツ時計の開発においては、部品を小さくすることや新たなシステムを導入することが検討されました。
昭和38年(1963年)には、恒也は諏訪精工舎(現在のセイコーエプソン)の取締役に就任しました。そして1964年夏季オリンピック東京大会で使用するクォーツ時計の開発チームプロジェクトリーダーも務めることになりました。
恒也らは研究を重ねた結果、競技用のクォーツ時計の開発に成功しました。開発されたクリスタルクロノメーターQC-951は大きさが20センチメートルとなっており、大幅な軽量化に成功しました。そして、東京オリンピックでも恒也らが開発したクォーツ時計が使用され、世界中で広く知られることになりました。

中村恒也の生涯(クォーツ式腕時計の開発とその後)
東京オリンピックで使用するクォーツ時計の開発が無事成功し、世界中に知れ渡ったすぐ後のことです。恒也はもっと使いやすいクォーツ時計が作れないか考えるようになりました。恒也は、手に乗るくらいのサイズ感でこれまでよりも丈夫なクォーツ時計をイメージし始めました。そして、恒也は次の目標としてクォーツ式の腕時計の開発を決めました。この決定に同僚たちはとても驚いていたようです。それもそのはず、最初のクォーツ時計は2メートル以上のサイズでしたから、、、
恒也が意識していたのは理想の時計を作り上げることでした。それは「狂わない」「止まらない」「美しい」の3つが揃った時計です。今考えると普通のことかもしれません。しかし当時それらのクオリティが確立していなかったため、非常に苦労して研究が続けられていたそうです。恒也らはクォーツ式腕時計開発に向けて、水晶の小型化のための形状変更、内臓モーターの小型化、組み立て方の変更などを熟考し続けました。
そしてついに昭和44年(1969年)にクォーツ式腕時計の開発に成功しました。その後、クォーツ式腕時計は高く評価され、特許を取得しました。特許取得後には、世界中の企業がクォーツ式腕時計の製造に着手し始めました。
それまで主流だった機械式腕時計よりも精度が高く、安価だということで人気が出たクォーツ式腕時計は世界中でなんと約96%ものシェアを誇るようになりました。
「お客様に使ってもらって初めて価値がある」と言い続けた恒也にとって、世界中で利用されるようになったことは非常に喜ばしいことだったに違いないでしょう。
恒也は、昭和57年(1982年)にはエプソン(後のセイコーエプソン)代表取締役社長、諏訪精工舎副社長に就任しました。昭和62年(1987年)にはセイコーエプソンの社長だった服部一郎の死去に伴って、セイコーエプソンの社長になりました。その後、平成6年(1994年)にはセイコーエプソンの相談役、平成16年(2004年)にはセイコーエプソンの名誉相談役に就任しました。
平成30年(2018年)12月25日、中村恒也は老衰により95歳で息を引き取りました。

今回はセイコーエプソンでクォーツ時計、クォーツ式腕時計の開発に尽力した日本人、中村恒也の生涯を振り返ってきましたが、いかがだったでしょうか。現在では一般的となっていますが、高精度にも関わらず比較的購入しやすい価格の腕時計は、彼らが研究を重ねた結果誕生したモノでした。世界中から注目されていた東京オリンピックの舞台や、世界中で利用されることになる腕時計を発明したのが、日本人であるということは驚きと共に誇らしい気分になりますね。何も知らずに普通に使用していた製品が、「実は日本人の努力によって誕生したものだった」ということは意外とあるものです。これから先、さらに革新的な発明品が誕生することでしょう。そのような発明品によって私たちの生活がどのように変化していくのか、とても楽しみですね!

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