【SKIPの知財教室(IP Hack ®)】じっくり®ヒストリー 川の両岸をワイヤーと滑車で繋ぐ「岡田式渡船方式」の発明家 岡田只治(川の上の輸送を安全なものにするため、私財を惜しみなく投資した、自己犠牲の精神に満ちた発明家)
2025.11.28

AKI
私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらはすべて先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。渡し船は、川や湖を往復して人や荷物を運ぶための乗り物で、車両が発展する前は物流の重要な役割を担っていました。船の操縦は人力によるもので、水上を生身で移動するため危険が伴うことも少なくありませんでした。夜間や増水時などは運行自体が不可能になり、住民たちは不便な暮らしを余儀なくされていました。そんな渡し船の安全性を確保したのが、日本で実業家として活動した岡田只治です。彼は川の両岸をワイヤーと滑車で繋ぐ「岡田式渡船方式」を考案し、実現しました。今回はそんな岡田只治の生涯を振り返っていきましょう。
岡田只治の前半生(岐阜県の長良川と今川に挟まれた保戸島に生まれ育って川にまつわる苦労を経験する)
岡田只治は1850年、現在の岐阜県にあたる美濃国山件郡戸田村にある保戸島で生まれました。彼の出身地である保戸島は長良川と今川に挟まれた立地で、集落の人々は川の氾濫や洪水の恐怖と戦っていました。洪水が発生すると交通が絶たれてしまい、急病人や出産の搬送が間に合わず、命を落としてしまう人もいました。明治14年末ごろには岐阜県内に172箇所の渡船場が設けられていましたが、人力で船を動かしていたため夜間や増水時は運行を止めなくてはなりませんでした。岡田は幼い頃からこのような環境で育ったため、川にまつわる人々の苦労を身に染みて感じていたのです。
25歳のとき、岡田は戸田村の戸長に就任します。住民生活の向上・改善のために奔走し、住民からは厚い信頼を獲得していきました。私財を投じて用水の開削と堤防の建築を計画し、1880年にどちらも竣工、1891年にほとんどが完成する段階まで達しました。しかし同年10月に発生した濃尾地震で水路が崩壊するという不幸に見舞われます。それでも岡田は諦めず、各務用水の復旧に努めました。水害は絶えず発生し、その度に水路の決壊を目にしてきましたが、岡田の尽力で稲葉郡と武儀郡が農地化することに成功しました。
岡田只治の後半生(川の両岸をワイヤーと滑車で繋ぐ「岡田式渡船方式」を発明して特許を取る)
保戸島に住む人々にとって、川は貴重な水源であり、同時に自然の脅威を感じさせる存在でもありました。そのため、生活の中で川と共存していく方法を見つけることは岡田にとって何よりも重要な急務でした。
川を挟んで荷物のやり取りをすることは、充実した住民生活を送るうえで欠かせない働きです。夜間や増水時も安全に川を渡れるようにするため、岡田は1897年ごろに「岡田式渡船方式」という仕組みを発明します。川の両岸に立てた支柱にワイヤーロープを張り、そこに滑車を取り付けることで船を動かすというものです。川の流れが動力源となることで船の動線が安定するため、従来よりも安全に、かつ労力を必要とせずに渡し船で人や荷物の受け渡しができるようになりました。
岡田式渡船方式はまず長良川で採用され、1901年には木曽川太田の渡しにも取り付けられました。その後、ジャーナリストの末松謙澄が岐阜県付近を訪れた際に岡田式渡船の構造を見て、感銘を受けた末松が新聞で岡田式渡船の構造を紹介したことで、岡田式渡船方式は全国に知れ渡ることとなります。岡田はこの技術に関して、特許を取得しました。
日本は山や川が多い地形も多く、戸田村と同じような問題を抱えている集落も数多くありました。渡し船に関しての危険性を解決するため、他の地域でも続々と岡田式渡船が採用されていきました。最盛期には日本全国60箇所以上で採用されていたといいます。
1914年、岡田は64歳でこの世を去りました。彼の死後、その功績を讃える顕彰碑が故郷の保戸島に建てられました。
1960年、架橋技術が発達し、渡し船は徐々にその必要性を失っていきました。輸送には航空や自動車などの方法が登場し、物流はさらに便利な世界へと進化していきます。しかし、その発展の影には彼の努力があったことを忘れてはいけません。
今回は、岡田式渡船方式を発案し、川の近くに住む住民たちの暮らしを豊かなものにすることに成功した岡田只治の生涯を振り返りました。川の上の輸送を安全なものにするため、私財を惜しみなく投資し、関係各所に協力を依頼するために奔走した彼の生涯は自己犠牲の精神に満ちたものでした。幼い頃から自分の生まれ育った地域で暮らす人たちの苦労を見ていたからこそ、心から問題を解決したかったことがうかがえます。渡し船は時代の変化とともにその必要がなくなり消えていきましたが、彼の残した偉大な功績が人の心から消えることはないでしょう。



