【SKIPの知財教室(IP Hack ®)】じっくり®ヒストリー 「蚊取り線香」の発明家 上山英一郎(蚊取り線香「金鳥」で有名な大日本除虫菊の創業者)
2025.10.23

AKI
私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらはすべて先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。日本の夏の風物詩・蚊取り線香にも、先人の知恵と工夫によって改良されてきた歴史があります。誕生当初の蚊取り線香は、一般的な線香と同様に棒状の形をしていました。商品自体が画期的なものだったので、蚊に悩まされていた農家の人々は喜びましたが、年少時間の短さや散布できる殺虫成分の少なさといった課題がありました。そこで渦巻き型にしてみたところ、燃焼時間を長持ちさせ、また持ち運びもしやすくなったのです。蚊取り線香のアイデアを考案し、商品化したのが日本の実業家、上山英一郎です。そして彼の成功を支えたのが、裏方でアイデアを出していた妻のゆきです。彼は大日本除虫菊を設立し、「金鳥」の商標を取得しました。今回はそんな上山英一郎の生涯を振り返っていきましょう。
上山英一郎の前半生(みかん農家に生まれて福沢諭吉の紹介で除虫菊を知り、除虫菊を原料にした「ノミ取り粉」を発明する)
上山英一郎は1862年、紀伊国有田郡山田原村(現在の和歌山県有田市)で生まれました。
彼の生家は国内有数の規模を誇るみかん農家で、生産されていたみかんは「紀州山勘蜜柑」と呼ばれ、全国に知られていました。英一郎は後に先代弥兵衛の養子となり、1878年に家督を相続。前名の「秀之助」から「英一郎」に改名しました。
16歳になった英一郎は、上京して勉強に打ち込みます。神田の進徳館に通い、その後は立教学校(立教大学の前身)で英語を学びました。慶應義塾にも顔を出していた英一郎は、福沢諭吉に薫陶を受け、商売の基礎を習得します。
福沢諭吉の教えを受け、世界を相手に商売をしようと考えていた英一郎でしたが、脚気の治療のため帰郷することに。それでも商売の意欲は失われず、まずはみかんを売ることから始めました。福沢諭吉の紹介で、アメリカで植物会社を営むE・H・アモアと知り合うことになり、これが英一郎の人生にとって大きな転機となるのです。
英一郎のみかんを気に入ったアモアに、英一郎はみかんの苗をプレゼントします。後日そのお礼として、アモアからいくつかの植物の種子が送られてきました。その中に、旧ユーゴスラビア原産の「除虫菊」がありました。除虫菊には殺虫作用があり、害虫駆除に使用されています。日本でも害虫に悩まされている農家は多く、英一郎はそこに商機を見出しました。まずは除虫菊の栽培を普及させるため、英一郎は全国の農家を回って種を配り始めます。反応は芳しくなく、門前払いを食うこともしばしばでした。しかし地道な普及活動のおかげで、少しずつ除虫菊を育てる農家も増え始め、英一郎の名前も知れ渡るようになっていきました。貿易立国を目指す英一郎は、除虫菊を原料にした「ノミ取り粉」を製造して売り出し、農家からの評判を集めました。
上山英一郎の後半生(蚊取り線香を発明して、大日本除虫菊を創業して、「金鳥」の商標を取得する)
ある日、英一郎のもとに1人の農家が訪れ、「蚊が大量発生して困っているのでなんとかしてほしい」と頼みにきました。蚊が伝染病の媒介になると聞いたことがある英一郎は、農家だけでなく病気にかかる人も減らせると考え、さっそく蚊を退治する方法を考え始めました。ノミ取り粉、火鉢と試してみますが、どれもしっくりきません。実用化に向けた最適な形を探っていると、仏壇の線香が目につきました。
1890年、棒状の蚊取り線香が誕生。大日本除虫菊を設立し、蚊取り線香の販売を開始しました。好評を得ましたが、燃焼時間が短く、また煙の細さから殺虫成分が十分に拡散されないという問題がありました。英一郎がより高い効果を発揮するにはどうすれば良いかを考えていると、妻のゆきから「渦巻き型にしてみてはどうか」という提案がなされました。
渦巻き型にすることで線香を長くすることができ、また火のついてない部分を持っても火種が手に落ちることなく運べることから安全性も確保できるようになりました。1902年、ついに世界初の渦巻き型蚊取り線香が発売されました。
渦巻き型蚊取り線香の発売を開始した後も、英一郎は除虫菊の買取を続けていました。1903年、除虫菊は大豊作となり、相場は大幅に下がりました。しかし英一郎は最初の契約通りの価格で買取を続けたため会社は倒産寸前まで追い込まれました。買取価格を下げることは英一郎のポリシーに反するため、外国向けの販路開拓を試みますが、外国商館に話を通すことすら難しい状況が続きました。
そんな中、1904年に日露戦争が始まります。日清戦争の際に、戦死者よりも疫病による死者の方が多かったと聞いていた英一郎は、「会社の経営よりも今は国の一大事」という思いで、軍に大量の除虫菊を寄付しました。するとその後、軍からは相場を大幅に上回る価格で、大量の除虫菊の発注がきました。また、ヨーロッパでは除虫菊が大凶作ということもあり、海外からの発注も増えました。
1910年、大日本除虫菊は「金鳥」の商標を取得し、英一郎にはこれまでの功績から勅定藍綬褒章受章が授与されました。1920年代に入ると日本はユーゴスラビアと並ぶほどの除虫菊の輸出大国となり、1930年ごろには日本が除虫菊の輸出量で世界トップに躍り出ました。1929年には、英一郎は当時のユーゴスラビア国王のアレキサンドル一世から、大阪駐在ユーゴスラビア名誉領事の称号を贈られました。1934年には殺虫成分をさらに強め、スプレーで噴霧できる「キンチョール」を発売。これは現在でも購入され続けているメガヒット商品となりました。
英一郎に感謝する農家は数多く、岡山・広島・愛媛・香川の各所で除虫菊神社が建立され、英一郎は神として祀られることになります。本人は断り続けたものの、関係者の熱い思いに根負けし、生ける神として崇められるようになったのです。
1943年、彼は81歳でその生涯を終えました。
今回は、「金鳥」で知られる大日本除虫菊を設立し、渦巻き型の蚊取り線香を世界で初めて考案した上山英一郎の生涯を振り返りました。幾度となく窮地に立たされ、その度に根気強く逆転の道を探し続けた英一郎の人生は、実に濃厚なものでしたね。蚊取り線香の匂いを嗅ぐとき、彼の生涯に思いを馳せてみるのも趣があるかもしれません。



