【SKIPの知財教室(IP Hack ®)】じっくり®ヒストリー 紙の発明者 蔡倫(宮廷で宦官になり樹皮や麻クズ・破れた魚網などの廃棄物の材料を用いて紙を発明したが、陰謀に巻き込まれて服毒自殺した後漢時代の宦官)
2025.07.28

AKI
私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらはすべて先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。紙は、印刷やハガキ、新聞やチラシなど、私たちの生活に欠かせない道具のひとつです。インターネットが発達した現代でも、紙を利用した情報のやりとりを欠かすことはできません。紙の歴史は長く、その祖先は1986年に中国で出土された、「放馬灘紙」だとされています。利用されていた時代は紀元前150年ごろのものだと推定されており、遥か昔から人間は紙とともに生活していたことが予想されています。紙の製法が確立され、実用化されるようになったのは西暦105年からということが知られています。紙製法を発見し、紙の普及に大きく貢献したのが後漢の宦官、蔡倫(さいりん)です。今回はそんな蔡倫の生涯を振り返っていきましょう。
蔡倫の前半生(後漢時代の宮廷で宦官になり中常侍に出世をして、樹皮や麻クズ・破れた魚網などの廃棄物の材料を用いて紙を発明する)
蔡倫は63年、後漢の時代に生まれました。第二皇帝である明帝が治めた永平末年(75年)、蔡倫は宦官として宮廷で働きました。宦官とは、宮廷について皇帝のもとで仕事をする去勢をされた官吏のことです。初めは身分の低い小黄門でしたが、和帝が即位した89年には中常侍の地位を獲得しました。蔡倫は誠実な人柄であることや、礼儀正しく教養の深い点、所作の美しさなどを評価されて宮廷での立場を上げていきました。97年から彼が就いた尚方令という役職は、剣をはじめとした武器や調度品の製作監督・製造技術の確立を任務としていました。
元興元年(105年)、蔡倫は樹皮や麻クズ・破れた魚網などの廃棄物の材料を用いて紙を製造して、和帝に献上しました。それまでは、文章を書くのに竹や絹などの素材が使用されていました。紙素材はすでに存在していたものの、高価であることから量産が難しく、当時使用されていた竹を使った書類は重かったため、持ち運びに苦労するという難点がありました。蔡倫の作った紙は優秀であり、安価に量産できたため、「蔡侯紙」と呼んで皆が使用した。
この一件で、蔡倫は和帝から厚い信頼を獲得しました。皇帝の腹心という立場を得た蔡倫は、政治の中心部にも加入するようになり、和帝に直接提言をすることもあったそうです。さらに、出土された古典の文献を校正するなど、本来の役職を全うして優秀な官吏としても活躍しました。
蔡倫の後半生(宮廷内の陰謀に巻き込まれて服毒自殺する)
和帝の時代は、ごく短い期間で終わりました。即位して1年も経たず、和帝はこの世を去りました。その後は殤帝(しょうてい)が帝位を継ぐも、こちらも幼なくして亡くなり、政治の実権を握っていた太后の鄧綏(とうすい)の手引きで齢13の劉祜が安帝として擁立されました。まだ幼い安帝の代わりに引き続き鄧綏が摂政となり、外戚と宦官を併用して宮廷を治めました。外戚は皇族の家系であり、政治に参加する権利を生まれながらに持っていました。そのためすでに政治を行う立場であった宦官とは折り合いが悪く、熾烈な権力抗争が繰り広げられました。その影響で、蔡倫は114年に竜亭侯に配属され、宮廷内を自由に動けなくされてしまうのです。
121年に太后が亡くなると、安帝は鄧氏一族の粛清を実行に移しました。同時に、安帝は父である劉慶が皇太子の座を降ろされた理由を調査し、祖母の宋貴人の呪詛によって自殺に追い込まれたとする報告を受け取りました。この報告に安帝は激怒し、蔡倫に対して処刑を命じました。蔡倫は服毒により自害し、彼の生涯はそこで終わりました。
今回は、紙の製法を確立した蔡倫の生涯を振り返りました。中国の長い歴史の中で、人々の役に立つ発明をした彼の功績は非常に素晴らしいものです。時代が違えば、宦官と外戚の権力抗争に巻き込まれ、その結果命を落とすという運命にはならなかったのかもしれません。紙は私たちにとっても身近なアイテムで、簡単に手に入るのが当たり前の存在になっていますが、先人たちの努力によって便利さを享受できていることは忘れないようにしたいですね。


