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【SKIPの知財教室(IP Hack ®)】じっくり®ヒストリー 国際十進分類法(UDC)を考案した ポール・オトレ(図書館などで図書を分類するための方法を確立した情報学の分野の偉人)

じっくりヒストリー IP HACK

2025.08.29

AKI

私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらはすべて先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。国際十進分類法は、図書館などで使用されている、図書を分類するための考え方のひとつです。図書分類法の歴史は深く、その起源は古代メソポタミア地方にあった図書館まで遡るとされています。図書分類法が確立されたことによって、資料を探す人がすぐに目当ての本に辿り着けるようになったのです。国際十進分類法(UDC)の発案者として知られるのが、ポール・オトレです。彼は世界書誌目録を作ろうとし、情報学の分野で大きな功績を残しました。今回はそんなポール・オトレの生涯を振り返っていきましょう。

ポール・オトレの前半生(国際十進分類法(UDC)を考案して世界中の出版物を3×5インチ四方のインデックスカードで収録する世界書誌目録を作成する)

ポール・オトレは1868年、ベルギーのブリュッセルで生まれました。父親は路面電車に関する商売をしていて、世界中で取引を行っていました。そのため家庭は裕福であり、生活にも余裕がありました。オトレは母親の知り合いを通じて文学に精通しました。しかしオトレが3歳の時にまだ24歳だった母親と死別すると、父親はオトレに家庭教師を雇って彼に勉強をさせました。オトレが6歳になるころ、一家はパリに引っ越してしばらく暮らしました。オトレは11歳からイエズス会の学校に3年間通い、これが彼にとっての初めての学校に行った経験となりました。

数年後、再び家族でブリュッセルに戻ると、父親はカトリック党の元老院の議員になり、再婚相手と5人の子どもをもうけました。オトレはルーヴァン・カトリック大学とリブレ・ド・ブリュッセル大学に通い、法律の学位を取得しました。父の友人であり有名な弁護士のエドモンド・ピカールの事務所で書記の仕事をするも、彼は法律関係の仕事に不満を抱くようになります。その一方で書誌学に興味を抱いたオトレは、1892年に「書誌学について」というエッセイを執筆し、これが彼の初作品となりました。この書籍の中で、オトレは情報を保存するのに書籍だけでは不十分だという考えを示しました。そして情報を管理するための手段として「情報カード」の構想を語ったのです。

1891年、トレは弁護士アンリ・ラ・フォンテーヌと出会い、本格的にキャリアを始動していきます。書誌学と国際関係に興味を持つ2人は意気投合し、すぐに親友となりました。1892年、オトレとフォンテーヌは様々な社会科学に関する参考文献目録の作成をベルギーの社会・政治学会に委託しました。3年間の期限を費やし、オトレが依頼した目録は完成しました。

1895年にはデューイ十進分類法を発見し、よりよい分類法への移行を計画しました。2人はシステム拡大の許可をもらうため、デューイ十進分類法の作成者であるメルヴィル・デューイに手紙を送りました。デューイはオトレたちのシステムが英語に翻訳されないことを条件に分類法の拡大を認め、その返事を受け取ったオトレとフォンテーヌはすぐに仕事に取りかかりました。その後、オトレは国際書誌協会(IIB)を設立し、後に国際情報及びドキュメンテーション連盟(FID)に改称しました。オトレの経歴には国際的な書誌データベースや百科事典の作成、国際的な図書館及び博物館の設立など多くの国際的な共同活動が含まれています。国際書誌協会の活動の一環として、世界中に存在するすべての出版物を3×5インチ四方のインデックスカードで収録する世界書誌目録の作成が行われました。

ポール・オトレの後半生(世界中のあらゆる情報が集まる「世界宮殿」を設立するが戦争で破壊される)

1910年、オトレとフォンテーヌは世界中のあらゆる情報が集まる「知識の都市」という構想を描きました。フォンテーヌと出会う前から、オトレはこの構想を「世界宮殿」と名付けており、世界中のすべての人が情報に触れられる環境を作りたいと考えていたのです。

第一次世界大戦が終わった直後の1919年、オトレとフォンテーヌはベルギー政府からの資金提供を求めました。ベルギー政府は自国に国連本部の設置を画策しており、知識の都市があればその推進になるとして彼らの望み通り資金の提供を認めました。政府からは建物が与えられ、オトレとフォンテーヌはスタッフを雇って世界宮殿の運営を行いました。その後一時的な閉鎖を経て、オトレは世界宮殿を「ムンダネウム」と改名しました。

1927年になると、世界書誌目録のインデックスカードは1300万枚に達しており、1934年には1500万枚を超えていました。しかしこの年、ベルギー政府はプロジェクトへの資金提供を打ち切り、IIBの事務所は閉鎖することになりました。閉鎖後もカードは事務所内に保管されていたものの、1940年のドイツ軍によるブリュッセル侵攻により、ムンダネウムの存在する地区が接収されてしまいます。カードのコレクションもほとんどが破壊されてしまったため、オトレは同僚や部下とともに新しい本拠地を探してムンダネウムを再構築しました。

その後、オトレは世界都市の構想やマイクロフィルムへのデータ保存など、情報に関する活動を熱心に行いました。また、オトレは平和への想いも強く、知識の国際的な普及への協力を惜しみませんでした。1907年にフォンテーヌとともに1907年に設立した国際学会連合 は、後に国際連盟や国際連盟の知的協力機関を経て、現在のユネスコに発展しました。さらには1929年の大恐慌のあと、大量の失業者を雇うためにベルギーのアントワープ近郊に「巨大な中立世界都市」を建設しました。

1944年、第二次世界大戦が終わる直前にオトレはこの世を去りました。ムンダネウムは閉館し、その後の活動は行われませんでした。オトレの活躍は世界情勢の変化とともに忘れられていきました。

彼を再評価する動きが出始めたのは1980年代の初めごろです。World Wide Webの登場により、オトレが提唱した情報への考え方についての関心が生まれました。1998年にはベルギーの研究者が多くの人の助けを借り、ムンダネウムを再建しました。このムンダネウムは現在も運営されており、オトレとラ・フォンテーヌの個人的な論文や、彼らが作った様々な組織のアーカイブがベルギーの近代史にとって重要なその他のコレクションとともに入っています。

今回は、ベルギーで情報についての活動を行ったポール・オトレの生涯を振り返りました。普段何気なく利用している図書館では、彼が考案した国際十進分類法が取り入れられています。膨大な情報の中から、必要なものにすぐにアクセスできるようにシステムを整備してくれたオトレの功績は大きなものです。

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