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【SKIPの知財教室(IP Hack ®)】じっくり®ヒストリー ナチス・ドイツの命令で原子爆弾の開発を行った発明家 ヴェルナー・ハイゼンベルク(「行列力学」や「不確定性原理」を唱えて量子力学の礎に貢献し、ノーベル物理学賞を受賞した天才研究者)

2024.06.17

AKI

私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらはすべて先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。量子力学は、分子や原子、電子などの動きを研究する力学分野です。基礎科学においてはもちろん、応用科学や技術などの分野においても、量子力学の考え方は欠かせません。その歴史は長く、ニュートンの時代からさまざまな研究が行われてきました。そんな中で革新的な成果を導いたのが、ドイツの理論物理学者だったヴェルナー・ハイゼンベルクです。彼はそれまでの常識を覆す概念として「行列力学」や「不確定性原理」を提唱しました。これらの概念は量子力学の世界に絶大な貢献をもたらしました。しかし彼は栄光の裏側、ナチス政権下で原爆開発を主導した人物という負の側面も持ち合わせています。今回はそんなヴェルナー・ハイゼンベルクの生涯を振り返っていきましょう。

 

ヴェルナー・ハイゼンベルクの前半生(「行列力学」や「不確定性原理」を唱えてノーベル物理学賞を受賞する)

ヴェルナー・ハイゼンベルクは、1901年ドイツ帝国南部のバイエルン王国ヴュルツブルクで生まれました。青年期にはミュンヘン大学に通い、アルノルト・ゾンマーフェルトに師事。のちにノーベル物理学賞を受賞するマックス・ボルンの助手として研究に臨みました。

物理学の始まりといえば、ニュートンのリンゴをイメージする方も多いでしょう。万有引力を発見し、地球に重力があることを見抜いたことから、物理学は始まりました。その後も研究者・学者たちの間でさまざまな解明が続き、アインシュタインの相対性理論など現代でも活用される法則が生まれるようになっていきました。しかし、量子力学という学問が生まれたのは19世紀に入ってからのことでした。

量子力学がはじまる前の期間のことを、古典力学といいます。そして古典力学の時代から、本格的に量子力学が構築されるまでの期間を前量子論と呼び分けられています。量子力学が成り立つ以前は、ニュートンの運動方程式が物体の運動を説明していました。18世紀に入ると、人類が爆発的に技術の躍進を遂げた産業革命の時代へと突入。この時期、ニュートン力学は機械工学に応用されていきました。運動エネルギー産生の仕組みが明確になったことで、熱力学も発展していったためです。ニュートン力学によって熱力学を説明しようとしたことで、初期の統計力学が構築されていきました。

1924年、ハイゼンベルクはコペンハーゲンでニールス・ボーアをたずね、留学することを決めました。マックス・ボルンとパスカル・ヨルダンにも協力してもらいながら、1925年に行列力学を提唱。1927年には不確定性原理を説き、量子力学の礎を築いていきました。1932年、31歳という若さでノーベル物理学賞を受賞し、このうえない栄誉を手にしたのです。

 

ヴェルナー・ハイゼンベルクの後半生(ナチス・ドイツの命令で原子爆弾の開発に携わる)

ノーベル賞の受賞で最高の栄誉を手にしたハイゼンベルクでしたが、その後彼の人生には重く暗い影が落とされます。ドイツではナチスの台頭により、多くのユダヤ人が退けられました。ハイゼンベルクもドイツから逃れようとしましたが、友人であるプランクからの「今は生き残るために妥協を強いられるにしても、破局の後の新しい時代のドイツのために残るべきだ」という言葉を受け、ドイツに残ることを決意。ナチスの度重なる迫害にも負けず、場の量子論や原子核理論などの研究に没頭しました。ハイゼンベルクは人種差別に否定的な価値観を抱いており、相対性理論とユダヤ人の物理学者を擁護する立場を取りました。このことを理由に、ナチス党の議員からは「白いユダヤ人」と呼ばれ、容赦のない悪意に晒されることに。第二次世界大戦がはじまると、ナチス政府は原爆開発チーム「ウラン・クラブ」にハイゼンブルクを招き入れました。ハイゼンベルクはのちに、原爆開発チームに入れられたことを精神的に苦痛だったと話しています。

1941年、ハイゼンベルクはデンマークのボーアを訪ねました。その時、原爆の開発について「理論上開発は可能だが、技術的にも財政的にも困難であり、原爆はこの戦争には間に合わない」と伝えると、原子炉の絵が書かれたメモを手渡した。ボーアはそのメモを、アメリカのハンス・ベーテに渡しました。さらに、ナチス高官に重水炉を使って電力不足を解消する提案をしましたが、本人はこれを実行しませんでした。ドイツへの背信行為とも取れる数々の行為は、意図的にナチスの原爆開発を遅らせるため、または連合国軍にドイツの情報を流して原爆開発競争に歯止めをかけるためだったという意見もあります。

終戦直後、ハイゼンベルクは他の開発者とともにイギリスのファーム・ホールに軟禁されます。軟禁中に、広島・長崎に原爆を投下したという知らせを受けると、そんなことは不可能だと驚いたそうです。ドイツが実現に至らなかった原爆の開発を、連合国が完成させてしまったことは大きなショックだったことでしょう。

その後は無事に釈放され、1946年から1970年までマックス・プランク物理学研究所の所長を務めました。1976年にその生涯を終え、ミュンヘンの森林墓地に埋葬されました。

今回は、量子力学の構築に貢献し、ドイツで原爆の開発にも関与したヴェルナー・ハイゼンベルクの生涯を振り返りました。大きな功績を残しながら、負の側面も大きい彼の生涯は、いい意味でも悪い意味でも人類史に大きなインパクトを与えました。彼がもし本気で原爆の製造に取り掛かっていたら、戦争の結末は変わっていたかもしれません。誰もが知っている歴史の裏側には、さまざまな背景があります。このような側面に目を向けてみると、人類史への歴史がより深まるかもしれませんね。

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